活劇とグルーヴの日記

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zoom RSS 映画『 リアル 完全なる首長竜の日』/山の神に逆らうべからず

<<   作成日時 : 2013/06/29 23:00  

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古代ギリシア人が哲学なんぞをやりだしたのは、世界が自分に対してあまりに無関心であるという事実に耐えられなかったからだ。

なぜ無関心に耐えられないのか。
それは男だからである。
本来、山も海も居住空間も、人間に対して無関心なものである。ただ世界はそれで充分なだけだ。その姿がまるでゾンビのように見え、怖がるのは、どの時代も男だけである。
その恐怖に耐えられない男は、だからいまだに市場経済のシステムやらイデオロギーやらの幻想に逃げ込む。その結果、得られるものはといえば、荒んだ廃墟と手に負えない怪獣だけである。現に男は、劇中の松重豊のように自分が吐き出した瓦礫の山に向かって悪態をつき、また佐藤健のように自ら生み出した首長竜に振り回されるばかりだ。
こんな男たちの幻想被害から世界を守れるのは女しかいない。女は綾瀬はるかのように、ただ走るだけだ。株価なんぞに惑わされる心配もないし(そんなものはヒマなじいさんがボケ防止のために眺めてればよい)、男のお面を着けたフェミニストの言葉など右から左だ(そんなものをまともに取り合うのも男だけである)。

死に怯えるのも男だけだ。女は、男が勝手にこしらえた生と死の境界など軽く乗り越えてみせる。もちろん少しは傷も負うだろうが、そのとき男は黙って女に肩を貸せばそれでよい。それ以外に男の役目なんてない。
ソクラテスやトルストイだってカミさんには敵わなかったのだから、男は無駄なあがきをしないことである。
山の神には誰も逆らえないというのは、ただそれが世界の掟だからという理由以外にない。そんな単純な、しかし恐るべき世界の掟を、この映画は語っているのだ(たぶん)。

では、この映画で山の神は誰だったのかというと、残念ながら、綾瀬はるかは程遠い。山の神は走ることなどしない。その意味で綾瀬は、『回路』(00年)であたふたしていた麻生久美子よりは一歩進んではいるものの、本質的にそれほど変わるところがない。中谷美紀も違う。妙に超然とした佇まいは、過去の役所広司が外面的に性別を変えただけにしか見えない。
となると、残るはただひとりである。
『トウキョウソナタ』(08年)で現代主婦の憂鬱から生じた自己実現欲求(という名の幻想)の罠をくぐり抜け、今や世界の片隅でひとり静かに息子を見守るだけで、男の幻想を解体するまでに至った小泉今日子。彼女こそが真の「山の神」にほかならない。この世界に小泉が登場した以上、役所はおろか、あの哀川翔ですら、もはや出る幕など残されていないだろう。

最後に、ここまで書いてきて気づいたことは、こうしたくだらない痴れ言を夜な夜な書き綴っている輩こそ、真の「男の幻想」のガラクタにほかならないという事実である。
(6/28、イオンシネマ市川妙典)




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